ポスト3.11の最初の1年が過ぎた

 東日本大震災と、東電の原発事故から、1年。
 3.11は、この国の社会に、強く節目を刻んだ大災厄です。

 とてもじゃぁないけど、「1年が過ぎて、気持ちを新たに」とか思えない。
 「気持ちを新たに」しても構わないんですけど、「1年過ぎたんだから、気を取り直して、旧態に復す」わけにはいかない。そんな状況が続いてます。

 むしろ「ポスト3.11」の「最初の1年が過ぎた」んだと考えた方がいい。


 この国の社会の様子は、3.11の前と、後(ポスト3.11)とで大きく変質してしまいました。


 例えば、大震災の受け止め方。あたり前だけど、東北地方と、ほかの地域圏とで違うはず。
 もし、東日本大震災福島原発の事故が複合しなければ、−−こうした仮定的な空想は埒のないものですが−−震災地の復興についての展望ももっとスッキリした見通しが、それなりに日本社会の全体で共有されていた、かもしれません。
 震災地では、色んな不満は出るにしても(当然出るはずでしょう)、全体としては“これくらいなら我慢できるか”的には思える程度の不満も伴いつつ、震災地復興も進められた、かもしれません。

 3.11までの日本社会の在りようは、そういう風だったはずです。
 でも、ポスト3.11の日本では、そうは行かない。

 3.11をきっかけに「地域ごとの事情の異なり」が、くっきりと前面にせり出してきた。これが、3.11の災厄が及ぼした、1番深い影響と思えます。
 入れ替わるように、3.11よりも前には通用した「同じ日本人だから」て相互依存を、あてにできなくなってしまった。

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 福島原発の事故は、中央政府や国会への信頼感を、かつてなく損なってしまいました。
 困ったことですけれど、今では、3.11よりも前のようには、中央からトップダウンされる「復興へのビジョン」を日本全体で共有することが困難になってます。

 3.11より前のやり方で、地域選出の代議員に、国民の意思を付託された政府をチェックさせるて制度も、信頼度が落ちたからです。
 それで、トップダウンなビジョンの共有が困難になってる。


 レベル7なんて酷い事故になった、福島原発の事故ですが、数ヶ月前、テレビ・ジャーナリストの田原総一郎さんが、何かの番組でーー
「日本の原発がレベル7なんて酷い事故を起こすとは予想できてなかった」
−−て趣旨の発言をしてられました。

 上は、田原さんのコメント通りの文言ではありません。アタシなりの趣旨要約ですけれど。

 田原さんの発言は「レベル3程度の、敷地外に放射能汚染を及ぼさない事故(原発業界のセンモン用語で「事象」とか呼ぶ類です)は、いつかまた起きるだろうとは覚悟していたけれど」って脈絡の上で、「日本の原発がこんな酷い事故(レベル7)を起こすとは予想できてなかった」って趣旨のものでした。

 田原さんは、もちろん原子炉の専門家ではないです。
 けれども、1970年代から、原子力発電も含んだ電力行政について、何年も精力的に調査研究されてきた方です。
 その田原さんに「こんな酷い事故を起こすとは予想できてなかった」と、言わせたのが、福島原発の事故です。


 福島県民のみなさんは、「東京電力に、経産省に、政府に」裏切られた、騙された、と考えてられるはずですけれど。
 神奈川県民で、横浜市民のアタシも「騙されていた」て考えは抱いています。「自分の判断も甘かった」て後悔しきれない思いも一緒に。
 「原発の“安全神話”」にアタシも、気づかないうちに、うかうかとノッてしまってた、て後悔ですけど。後悔してもしきれません。

 関東圏に住んでいる東電ユーザーも、少なくない数の人たちが(全員でもないでしょう)、同じように「騙されていた」って思いを抱いている様子です。


 この1年間、東京電力経産省、政府が、「事態の収束」を言えば言うほど、信頼感が喪われる悪循環が戻りようのないところまで進みました。

 経産省も含んだ政府だけでなく、国会への信頼感も取り返しようにないほど損なわれています。野党自民党が党として、過去に自分たちが関わった原子力行政について総括しないまま、政府追求を重ねたからです。
自民党内にも、過去の批判的検討をしてられる議員さんなどがいることは知っています。けれど、ここで書いてるのは「党として」の言動についてです)
 国会の様子を観ていると、野党も与党も国会議員が自らの言動で信頼感を落とす動きは、まだまだ続きそうです。

 例えば、野田首相原子力・安全保安院のストレステストは有効みたいなことを、何故言えるのか? 然るべき処分も下していないのに。

 野党も野党で、原子力規制庁関連法案の審議を、なぜ遅らせるのか??
 考えはあってのことなんでしょうけど。どんな考えがあって審議を遅滞させるのか(?)、もっと言えば、どんな規制庁を目指していて、政府提出の法案の審議に乗らないのか、さっぱりわかりません。


 3.11は、東日本大震災福島原発の事故が複合した大災厄なわけですけれど。
 この大災厄で、中央官庁、政府、国会への信頼感は、当面、取り返しようがないほど損なわれた。
 回復するとしたら、総選挙しかないはずですが、それでも信頼感が回復されるかどうか、心もとないほど損なわれてしまった。

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 では、どうしていったらいいのか。

 これからは、各地域でそれぞれが、地域でできることは地域で処理し、地域では処理しきれないことだけを、中央政府や国会に計るように、していくべきかと思えます。
 トップダウンよりもボトムアップが重要になっている情勢です。

 ここで必要なことは、地域で処理できることと、処理しきれないことの分別。
 処理できること/処理できないことの分別も、まず地域で吟味して、そして全日本的な調整を計っていく必要がある。


 アタシは、神奈川県民で横浜市民です。
 神奈川県知事は、先に、3.11の被害地からの瓦礫瓦礫受け入れに積極的な自治体間の連絡連携のための組織に参加を表明しました。これにはアタシ、神奈川県民として、支持票を1票。

 横浜市だと、今のところ低線量の瓦礫焼却灰を、概ね1万トン弱引き受けて仮置きしています。
 まず、仮置きを引き受けたことは、良かったと思います。引き受けたことにも横浜市民として支持票を1票。
 ただし、あくまで「仮置き」であることが前提での支持票です。

 低線量瓦礫とは言っても、焼却灰の埋め立てなど、その“最終処分”までは地方自治体で無条件に引き受けないでいただきたい。


 アタシ個人は、瓦礫受入れには賛成ですけれど。
 神奈川県にも受入れ反対の住民意見はあります。
 自治体には、反対意見の住民とも、議論を重ねながら、引き受けの方法を整理していっていただきたいと思います。

 反対意見には、今のところ強硬なものが目立つようですので、議論と言っても簡単ではないでしょうけれど。
 賛成/反対の2極で対立していくのではなく、どうにか、中間的な落としどころを作っていかないと。
 そうした方向での受け入れに、市民、県民として積極的に応援、協力していくつもりです。


 誤解がないように書いておきますが、低線量瓦礫の“最終処分”、横浜市内で処理していただいても、神奈川県内で処理していただいても、きちんと処理されるなら、アタシは結構です。賛成票を1票。

 先んじて瓦礫を受け入れた東京都で、受け入れの初期に、処理場で放射線量の高い汚泥が生じて騒ぎになったことがあります。瓦礫は低線量でも、処理によって放射性物質がいわば濃縮されたわけですね。
 こうした“最終処分”の責任は、中央政府に負っていただきたい、と考えています。

 中央政府の責任で“最終処分”をするなら、地域としてもできることはサポートすればいい、と考えます。
 サポートの形は、“最終処分”分の資金を中央からにするのか、あるいは何か技術提供という形にするのか、はたまた、高い線量の汚泥類を、再度中央に引き取ってもらうのか。解決策は、自治体と中央との政治交渉で決めていただくしかないでしょうけれど。

 少なくとも、仮置きのために新たに発生していく予算は、横浜市だけでなく、神奈川県とも歩調を合わせて、中央政府に請求してもらいたい。

 請求しても応じられないかもしれませんけど。中央政府に請求することに意味があります。同じように、低線量瓦礫の仮置きを引き受けた自治体で連携して、政府の責任を追及していっていただきたい。
 「保管費用の請求」をすることで、「政府責任を追及」して、低線量瓦礫“最終処分”を政府責任で処理させる、って政治交渉をしていっていただきたい。


 先日、東京都の猪瀬副知事が、東京電力の系列子会社優先の経営体質を指摘。東電が請求した電気料金値上げの根拠であるコストは圧縮が可能だ、と提言したそうです。
 電力システム改革専門委員会(経産省の諮問機関)に参考人として出席されたときのことなんですって。提言を受けた枝野経産相は、東電の値上げ要請にコスト圧縮の方向を強く求めた、と報じられています。

 アタシたちが、地域や地方自治体の代表に促していくべきなのは、こんなような、粘り強い政治交渉、中央との政治交渉でしょう。


 今、神奈川県でも、低線量瓦礫の受け入れに、反対の住民意見はあります。
 反対する動機も、アタシなりにわかるつもりです。
 けれど「何が何でも絶対反対」の主張はよろしくない。

 アタシたち地域住民は、アタシたちの地方自治体に、地域から中央政府へのボトムアップや政治交渉を促し、応援していくべきです。
 低線量瓦礫の受け入れ反対も、そうした働きかけの一環として営まれるのでないと、「何が何でも絶対反対」では、自治体の中央との政治交渉のやりようがなくなるはずです。
 それに、「絶対反対」の主張は、ただワガママなだけの地域エゴへと堕落しかねませんし。

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 3.11までは、「多少の違いはあっても、同じ日本人だから」と、譲り合ったり、遠慮しあったりしていたものですけれど。
 ポスト3.11では、「地域ごとの異なり」の方が、日本人としての同質性よりも前面にせり出してきてます。

 3.11以降加速されてるマスメディアへの不審も、「同じ日本人だから」て感じ方を、世の中の背景に退かせてる。
3.11を節目にして「地域ごとの異なり」がくっきりしたことは、引き戻すことのできない変質、と思えます。


 だからと言って、焦ったり、悲観的になったりは、避けていかないと。
 「日本人としての同質性」は、後退しただけで、無くなったわけではないはずですし。
 例えば、アタシたちは、誰でも日本語を話し、日本語で考え、感じ方や思いも日本語で言葉にしてます。これは、「日本人としての同質性」ですね。


 アタシが思うには、ポスト3.11の世の中では、まず「関東人としてはこう考える」とか、「神奈川県民としてはこう思う」とかを、互いにきちんとオープンにして、言葉にして、ボトムアップで「日本人としての合意」を作っていくしかないように思えます。

 こうした意見を唱えると、伝統主義思想の陣営から「もっと愛国心を」的な掛け声が聞こえてきそうですけれど。
 「愛国心」は、アタシたちが誇れるだけの世の中を営んでいけば、その度合いに応じて自ずと生じるものです。
掛け声で強いられるような心は、エセ愛国心にしかなりません。

 横浜市民は日本の内で自慢するにたる横浜市を作っていく、神奈川県民も自慢できる神奈川県を作っていく。
 そして「日本人としての合意」を作っていく手続きとして、まず、互いに地域としての異なりからオープンにしていって、全日本的な合意を、ボトムアップで作っていく。これが、ポスト3.11の愛国心を育てていくための道と思えます。
 アタシが思うには、ほとんど唯一の道かと。

 「低線量瓦礫受入れの絶対全部反対」が、誇るに足りる横浜市や神奈川県に寄与するとは、アタシには思えないんです。
 反対するな、的なことを言うつもりはありません。
 反対を唱えるにしても、どうしても譲れない事柄と、譲れる事柄との分別をしていきましょう、と言っています。