LGBTで言うと、TでB

 デイリー女装とか言ってるアタシは、LGBTで言ったら、TでBです。
 女装者ですから、もちろんMtF(Male to Female)。

 異性愛者の人向けに書くと、肉体的な性別への違和感を常に抱いてるTrans(T)で。♂として生まれたけど、オンナのつもりでくらしてるヤツ(MtF)。

 ちなみに、「LGBT」のLは女性の同性愛者(L)、Gは男性の同性愛者(G)のこと。そして、Bは、両性愛者(Bisexual)のBです。

 アタシについて言えば、過去に、男性とお付き合いしたこともあれば、女性とお付き合いしたこともあります。だからB。
 でも、1度に二股とかかけるほどマメじゃぁありません。
 そりゃ若い頃は、時間差混線みたいなハメに陥ったこともありますけど。そんなことは異性愛者の人にだってあることですよね。

 なんで、こんなことまで書くかというと、「両性愛者」「バイセクシュアル」と聞くと、あらぬ妄想を抱く異性愛者の人、しばしばいるから。
 エッチなパソコンゲームとかのやりすぎなんじゃない? みたいな妄想で。なんか、絶倫大魔王みたいなキャラを、勝手に、妄想する異性愛者、決して少なくないです。
 しっつれーしちゃうわ。プンプン(笑)。

 その都度、誤解を解くのは、結構わずらわしくもあるんですけど。
 マイノリティー(少数派)なのは、それは事実でしょうから。自分のために説明したりしなかったり、必要性は、その都度、自分で判断させてもらってる。
 どうでもいいような時は、勝手に誤解してるに任せちゃうことだって、あるわよね。そりゃ。


 アタシは、「LGBT」って言い方は、「性的マイノリティー」って言い方よりも、いいと思ってる。
 異性愛者中心の社会や世間に向けての発信の面でも、性的マイノリティーの間での共生の面でも、いろんな可能性があると思うな。

 異性愛者向けの発信では、「LGBT」てのは、「性的マイノリティーの間にも色んなタイプの人がいます」ってことですよね。
 もちろん、4タイプだけで大別できるようなもんじゃぁないわけですけれど。
 そーゆーことは、異性愛者にはなかなかわかりづらい。

 アタシが思うには、マイノリティーの方から、噛んで含めるように、説明を繰り返すのは、手間はかかるけど、結局アタシたち少数派自身のためになると思います。

 で、アタシは、レインボウのシンボル好きだし、シンボルにすることも、いいと思ってるんですけど。
 その内でも、とりあえず、LGBTの間の交流から優先していきましょう、みたいな路線は、実際面でのメリットもあると思います。色々な喰い違いもあるわけですけれど。大筋としてはメリットあると思うな。
 「アタシ、MtFのTGでバイなんですよ。バイって言っても、性自認はオンナなんで、リバもできることはできるけど、本性はネコです」なーんて話は、性的マイノリティの内輪でも、結構面倒だし(笑)。
 そんなことまで説明する必要があるのは、本当なら、深い仲になれそうな人相手だけでいいはずじゃん。アタシはそう思うな。

 異性愛者相手に、そんな立ち入ったことまで説明するとしたら、何かよっぽど必要があるときだけだと思うけど。
 何が優先的に大事かも、LGBTの間の多様性に応じて、色々ありますよね。それはわかります。

 LGBTが、異性愛者中心の社会に求めてるものは、人それぞれではあるだろうけれど、アタシが思うには、概ねの人が求める事柄は3つくらいあるような気がします。

 1つは、アタシたちの存在を社会的に認知してほしい。
 1つは、無知と誤解に基づいた偏見をアタシたちに押し付けないでほしい。
 1つは、アタシたちがそれぞれの在り方に沿って幸福を求める権利を認知してほしい。

――この3つは、少数派概ねの人は求めてるんじゃぁないかしら。

 優先順位や、求め方や、求める具体的な事項は人によってバラエティーあるでしょうけど。


 「アタシたちの存在を社会的に認知してほしい。」
 例えば、この国は、同性愛者の人口比率すら公式の調査がない。その面では遅れた国ですよね。
 そういうことは、やっぱりアタシたちの方から要求した方がいいだろうと思います。色々難しいこともありますけれど。


 「無知と誤解に基づいた偏見をアタシたちに押し付けないでほしい。」
 同性愛者の人口比率すら公式の調査がないのは、政府や、アタシたち少数派自身も含めた、社会全体の至らなさですから。基本的には、個々の異性愛者の無知や誤解を責めない方がいい、とアタシは思う。
 けれど、「偏見を押し付けられる」については、話は別ですよね。「それは偏見です」と、わずらわしくてもその都度言えるといいと思います。


 「アタシたちがそれぞれの在り方に沿って幸福を求める権利を認知してほしい。」
 この件の障害は、幾つもありそうです。

 アタシが気になるのは、この国の社会の社会常識が、伝統的に、「同化型差別」に鈍感であること。
 社会学とかの教えるところでは、様々な社会に、様々な理由付け、様々な形態の差別があるのですが。その比較を整理していくと、ほとんどすべての差別は、社会的には、同化しようとする働きと、排除しようとする働きとの関わり方で、比較することができる。
 つまり、恣意的な比較ではなくて、客観性を高めた比較が可能になるってことですね。

 ところが、この国の社会常識は、「差別」と言えば、まず「排除」のことから考え、「同化」が差別をもたらすことがあるってことに、かなりのところ無頓着。
 こんなことは、アタシなんかが、こんなとこに書かなくても、LGBTの人なら多かれ少なかれ、日常的に体験したことがあると思います。
 異性愛者の人は、学校や職場でのイジメとかについて、ちょっと考えてみてほしいです。ちょっと考えれば、「差別っていうのが、同化を求める力と、排除を求める力のコンボで生じる」ことはわかるはず。

 同化型差別の恐ろしさ、気味悪さ、そして、対処の難しさについて考えてみたい人には、例えば、実話に基づいた映画『裸足の1500マイル』をお勧めします。
 監督=フィリップ・ノイス、脚本=クリスティン・オルセンの2002年のオーストラリア映画。日本公開は、2003年でしたけれど。DVDも出てるので、レンタルでも観れるはず。

 LGBTな人にも、異性愛者の人にも、是非、お勧めします。