鉢呂吉雄議員の辞任は当然だったけど、辞任の仕方が悪かった

 先週の土曜日(10日)夜、野田内閣の経済産業大臣だった鉢呂吉雄氏が、大臣を辞任しました。
 報道がきっかけになって取りざたされた“失言”問題を引責して、辞任を申し出、首相がそれを承認した形だそうです。
 この件は、複数の報道メディアで報じられてます。

 報じられてはいますけど、経緯に不明瞭な点が少なくない。曖昧な報道が多すぎる、と思うな。


 アタシは、鉢呂吉雄議員は、大臣を辞任すべきだった、って考えてます。
 けれど、辞任に際しての謝罪声明とかには不明瞭な点があった。不明瞭でよくなかった。

 「なぜ、辞任しなくてはいけない」のか、曖昧にしか言ってないとこがよくないんだわ。
 この点は、実は過去、数十年、要職についてた国会議員が辞任する時にしばしばみられた無責任な辞任の仕方と、同じようなパターンだって思える。

 今回の一連の騒動では、報道メディアの方も、概して、「なぜ、辞任しなくてはいけない」のか、曖昧なままで報じてた例が目立った、とも思えます。


 アタシは、この件についての自分の考えを、要旨だけですけど、11日付けの記事(「サンデー・フロントライン:今週は、事実上の“3.11から半年特集”で、割と観れた」)に書いてみました。
 テレビ朝日でやってる報道番組「サンデー・フロントライン」の、紹介と個人評価を書く一部で、要旨だけ書いたんですけど。

 こちらの記事では、もう一度、鉢呂吉雄議員が経産大臣辞任に至った、一連の騒動について、自分の考えを書いとこうと思います。


 アタシの考えだと、鉢呂議員が経産大臣を辞めなくてはいけなかったのは、議員会館でいわゆる「ぶらさがり取材」をしてた記者に「放射能ついたぞ」とか「つけたぞ」とか言いながら、“着てた防災服の袖をこすり付けた”とか付けないとかの言動に観られる不見識によります。
 どういう不見識が問題なのか、ってとこが重要なはず。

 「“防災服の袖”をすりつける」くらいで「放射能が移ったとか、移んない」とか言うこと自体、原発事故に起因した風評被害の原因になるような“誤解”を助長する言動。
 そんな言動は、国会議員として不見識です。経産大臣に限らず、国会議員として不見識。
 だから、鉢呂議員は大臣職を辞任して当然ですし、辞めたことは良かった。

 大体、「放射能」は移らないもんです。
 タバコの煙を服に吹きかけても、服の布地に「発癌性」が移るわけではない。

 ちょっとトンチみたいな小理屈を書いたけど。
 一部の報道によると、八絽議員が記者に「放射能ついたぞ」とか言ったのは、記者の方から八絽氏に「(今着てる服には)放射能着いてるんですか?」と聞いたんだとか、聞きながら八絽議員の服に触れたんだか、したんだって話も、報道で伝えられてるんですよね。

 アタシには、こっちの報道の真偽、判断つきません。
 けれど、もし、一部報道が事実に基づいたものだとしたら、取材した記者も報道マンとして不見識、ってことになる。


 はっきり書けば、議員会館で、記者と議員の間でどんなやりとりがあったのか、その辺の事実関係については、メディアによって、報じたり報じてなかったり、報じてる場合でも、内容にバラつきがある。
 つまり、議員会館でどんなやりとりが交わされたのか、その実態は藪の中。

 事実報道をおざなりにした、“魔女狩り”みたいな報道が目立った(全部とは言わない)。
 八絽議員の方も、何故辞任するのかの理由が曖昧なまま、形だけの“引責”で辞任した形になってる。

 この事態は、とてもおかしく、大変好ましくない。
 辞任した議員や、辞任要求した国会議員だけでなく、報道メディアの報道姿勢もおかしな点が目立って好ましくない。


 「何故、辞めなければいけなかったのか」曖昧にしたままの引責辞任は、形だけの引責です。
 「辞め方が無責任」でよろしくない。

 同時に「何故、辞めなければいけないのか」、ちゃんと整理して言ってない野党議員の方も、政治家として無責任。
 漠然とした感覚論で「辞めろ」と言いたてるだけでは、扇動政治にすぎませんから。


 もっと言うなら、もし、一部のメディアが報じてるように、問題の記者が「(今着てる服には)放射能着いてるんですか?」と聞くような取材をしたって話が本当だったとしたら。

 以下は、仮定の話になりますけれど。
 もし、そんな取材をする記者がいたなら、新聞社だろうとTV局だろうと、会社側はその記者を一時休職なり、降格なりにするべきでしょう。フリー記者だったら、出入り禁止にしちゃうくらいで構わない。

 アタシの個人的な考えでは、降格にして、原発事故問題に必要な知識をおさらいしなおすように社員教育することが、報道メディア自身のためにも必要でしょう。
 だって「放射能」は移ったりしないですから。そんなこともわきまえない人は、関連の取材なんかすべきではないですね。どんな取材でも、話題に応じた下調べをするのは、プロだったら当然。
 だから、「その服に放射能着いてるんですか?」とか、経産大臣に聞くような取材は、プロの報道人の取材姿勢とは思えない。

 報道メディアは、よく「報道の自由言論の自由)」を唱えるけれど、「自由」には相応の「責任」も伴うってこと、ちゃんと姿勢で示してほしいです。「報道の自由」とか唱えるなら、なおさら。


 アタシは、11日付けの記事の方では、同じ八絽議員の言動が「放射能に起因する差別言動を助長しかねない」ものだから、辞めて当然って旨のことを書いてますけど。こっちの考えも、今でも変わってません。

 個人的な意見は変わってませんけれど、引責理由問題の要点を、より多くの日本人に、速やかに理解してもらえる形に絞り込むと、残念なことに「風評被害の問題にも取り組むべき国会議員としては不見識」って理由を挙げざるを得なかった。
 「放射能放射線量のイメージを理由にした差別」の問題が、「風評被害」の問題よりも重いわけでも軽いわけでもないはずです。それぞれに、ややこしく入り組んだ問題なんだし。

 はっきり書けば、「風評被害」の問題自体、「間接的で曖昧な差別意識」の表われ。強いて言えば、「地域差別」の問題につながってるものですけど。
 残念だけど、そこまで話を広げては、「より多くの人に、速やかに理解してもらえる形」で意見を整理することが、今のアタシにはできない。
 かなり長めの論考分を書くならともかく、コンパクトな意見に絞り込むことができないんだわ。悔しいけど。
 実は、この2、3日、そうしたことを考えて、自分の考えを整理してました。


 八絽議員引責の要旨は、「放射能つけた」の言動が示す、風評被害を容認し助長しかねない不見識って指摘をしておきます。
 アタシ的には残念な整理なんだけど、この整理自体は、間違ってはいないはず。
 不十分ではあるでしょうけど。


 さて、八絽議員の“引責辞任”については、もう一方で「死の町」発言の是非、って件も関わってます。
 記者会見での「死の町発言」の件と、議員会館での「放射能ついた言動」の件とが、事わけもされず、真相も明らかにされないまま、引退しろ、しない、もう辞任する、みたいに推移したのが、一連の騒動の経緯としか思えません。
 八絽議員当人も、国会議員たちも、報道メディアも、全体としては「なぜ、辞任すべきか」の理由を整理しようって動きを示さないままに事態が進んだんですから、「騒動」と呼ぶしかない。

 やっぱり11日付の記事に書いたことではあるんですけど。
 アタシは、TV報道などで、記者会見に際して、当時、経産大臣の立場だった発言を通してみて、「死の町発言」を含んだ発言は、失言にはあたらない、と考えてます。

 当時、経産大臣だった立場から「残念ながら(福島原発の)周辺町村の市街地は、人っ子ひとりいない、まさに死のまちという状態でございました」って、発言が失言にあたるとは思えないです。
 もし、原発事故のために避難を強いられている周辺住民の方から「『死の町』って言い方は無い」とか、「言い方がキツイ」といった、クレームが出るなら。この件については、八絽議員はきちんとした釈明をすべきだったし、今でも、すべきだろうって気もします。

 でもね、「放射能つけた」みたいな言動しちゃう不見識な人が何を釈明しても、空しく聞こえるって事になっちゃった。
 このまま済んじゃうと、一連の騒動は、お寒いバカ騒ぎだった、ってことになり兼ねない。
 それが一番良くない可能性。

 この点については、八絽議員だけじゃぁなくて、多くの報道も、あるいは辞任要求をした野党議員もそれぞれに無責任。もちろん、無責任の度合いに軽重はあるんだけど。

 例えば、自民党の大島副総裁は、「死の町」発言について、「希望を被災者のみなさんから奪うような発言をすること自体、失格に値するような言葉ではないかなぁ」とか、TVカメラに向かって言ってたけど。
 こーゆー揚げ足とりは、事の要点をあいまいにして騒動を大きくするだけです。
 批判するなら、もっとちゃんと事わけしながらしてよね、ほんとに。


 原発事故の被害者の間にも、「いつ戻れるのか、はっきりしてほしい」とか、「戻れる目処が何年もかかるんなら、残念だけど、転出も考えなくては」「だから、早くいつ戻れるのか、(あるいは戻れないのはいつ頃までなのか)はっきりさせてほしい」と言った声も聞かれていることは、各局の取材でも報じられてます。


 「いつ戻れるのか」はっきり打ち出せないままに、ぬか喜びのような「希望」を口にする政治家も不見識なんだわ。どこの党の政治家さんだろうと。
 そこで「周辺町村の市街地は、人っ子ひとりいない」、いれない状況にあることを「死のまちという状態でございました」と報告するのは、現状認識としては正しいです。