シンク・ソーシャル・アクト・パーソナル(カムアウトの話)
昨日のダイアリー(「デイリー女装にシフトした後 - 佳那の日記」)では、カムアウトの話題を、中途半端に書きすぎたようです。
書くなら、もっときちんと書いた方が良かったわね、とか、後知恵で思いました。
ここでは、昨日書いたことで、アタシ的に1番伝わってほしかった要旨だけに絞って、重ねて書くことにします。
まず、カムアウトに限らない一般論ですけれど、アタシが思うには、自己責任で選択する行為は、「できる範囲で視野を広くして考えた方がいいけれど、広い範囲に、直接、働きかけなくてもいい。むしろ、視野に入れた広い範囲を念頭には置くけれど、まず、身の回りの手の届く範囲でできることからやっていった方がいい」と、思います。
特に、カムアウトは、自身の生活への影響が大きくなるおこないなので、できる範囲のささやかなことから手をつけた方がいいと思う。
よく、「シンク・グローバル・アクト・ローカル」とか言うじゃぁないですか。
もじって言ってみると、「シンク・ソーシャル・アクト・パーソナル」みたいな感じ。
誰でも、そういう風に暮らしてると思うんですけど。意識するとしないとでは、違ってくる部分てあるし。アタシが思うには、結構大事なとこが違ってくるだろうと思います。
これが1番伝わってほしい要旨でした。
中途半端に書きすぎるよりも、要旨に絞って書けばよかったですね。しっぱい、しっぱい。
昨日分のダイアリーに書いた、カムアウト関連のパートは、実は、先日観たドキュメンタリー『告白・カミングアウト』のことをアレコレ考えてた思考に引っ張られて書いちゃったように思います。
『告白・カミングアウト』は、NHK・BS1でやったドキュメンタリー。
アメリカ(U.S.A.)のLGを取材したこのドキュメンタリーで。2010年に、NHKとドキュメンタリージャパンというプロダクションとが共同で製作したもののようです(NHKの番組紹介コンテンツは右に ⇒ http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/101106.html)
たぶん、製作意図としては、異性愛者を優先想定にして製作されたドキュメンタリーかと思うんですけど。
アタシが思うには、異性愛者の視聴者とLGBTの視聴者とでは、印象や評価がズレやすい結果になってるかな。
そこら辺が、どーも気にかかっちゃって、しばらくあれこれ考えてました。その思考に引っ張られる感じで書いちゃったと思います。
もちろん、LGBTにも異性愛者にも色々な人がいるのですけれど。『告白・カミングアウト』については、異性愛者の概ねの評価が想像し易い(と、アタシは思うのだわ)のと比較して、LGBTの間での評価はかなり割れそうな気がします。
じゃぁ、アタシがこの番組、どう思っているかと言うと、ドキュメンタリーとしては悪い番組とは思わないけど、決定的に喰い足りないものがある、と思ってます。
カミングアウトについては、個別の事例がよく取材されていたとは思います。けれど、カムアウトの前に、クローゼットな状態があるのがLGBTの普通ですよね。
クローゼットな状態の苦しさが、あまりうまく捉えられていなかった。言ってしまえば、これが、アタシの感じた喰い足りなさなんですけど。番組で、クローゼットな状態の苦しさ、まったく録られてない、ということでもないんです。
クローゼットな状態の苦しさについて、断片的には、ハッとする画像に状況が切り取られてるとこも散見されました。
けれど、例えば、終盤のまとめ方とか、全体の構成が、中途半端に綺麗なまとめ方に傾いてたと思うのだわ。この件は、異性愛者視聴者を想定した分かり易さ、呑み込み易さを狙ってのこと、かもしれません。
でも、そうだとしたら、ドキュメンタリーとしてはいかがなものかしら?
ニュース報道なら、分かりやすさは大事かもしれない。けれどドキュメンタリーって違うんじゃぁないかな。
分かりやすく噛み砕いたり、お話をまとめたりすることで、損なわれること、見失われることってあるはずで。そこを画像の力も使って伝えるのは、ドキュメンタリーならではのアプローチなんじゃぁないかな。
そーゆーとこで、喰い足りなさの感じられる番組に『告白・カミングアウト』は、なっちゃってたと思います。
LGBTにはいろいろな人がいるけれど、にも関わらす、おしなべて、まず、クローゼットを強いられますよね。カミングアウトは、クローゼット状態の苦しさから抜け出す、あるいは、苦しさを宥めるアプローチの1つと思うのですが。
LGBTがまずクローゼットを強いられるのは何故か、アメリカには、どんな社会的メカニズムがあるのか、てとこにはメスの届いてないドキュメンタリーに、結果としてなってる。
アンコールもあわせて2度観て、あれこれ考えた後、そんな風に思っています。
つまり、前提になってるクローゼット状態への切り込みが浅いまま、カミングアウトについて焦点をあててることが、異性愛者の印象や評価と、LGBT側の印象や評価とがズレていきそうな理由になってるだろう、とアタシは考えてるわけです。
そんなことを考えてた思考に引っ張られて、昨日分ダイアリーのカムアウト話題のパート、中途半端に書きすぎちゃいました。ちょっと、勇み足。