デイリー女装にシフトした頃

 会社勤めを止めた後、それまでの週末女装っぽいいき方から、デイリー女装にシフトしたアタシだけど。
 それも、そうそうスムースにシフトしたわけでもなかった。もう10年ほど前のことになる。


 アタシの世代だと、長い時間をかけて刷り込まれた“うしろめたさ”みたいなのがあって。アタシの場合、それが枷になってた。
 室内で女装して、気持ちの平安を得ていても、買い物に出かけるときには、スカート脱いでパンツに履き替えてみたいなことしてた時期は、それなりに長かったと思う。
 それとか、午前中に必要な買い物をまとめて済ませてきて、帰宅してからメイクとか。
 今思うと、よく、あんな面倒なことしてたわね(笑)、としか思えないし。その時期の記憶は、概ね曖昧になってる。退社後の“心の洗濯”期間だったことも関係してるでしょう。

 最近の若い女装者、特にに“オトコの娘”とか呼ばれてる人たちは、遠くからメディア越しに観てると、なんだかあっけらかんと楽し気に女装してるような印象で。やっぱり羨ましく感じはします。

 そう言えば、昔、女装仲間とわいわい騒いでた時に、こんなことがあった。
 誰かが「なんでうちらは、実年齢より若い可愛い格好したがるのかしら??」みたいに言って。別の誰かが「そんなの、女の子やってた時間がないからに決まってるじゃん」と言っちゃって。その場にいたみんなは、それぞれに「うん」て、うなずいて、いっせいに少しの沈黙。

 もし、実際に今の“オトコの娘”たちと接しみれば、きっと色々なタイプの人もいるのでしょうし。中には、“うしろめたさ”までいかなくても、何か屈折した心理を抱え込んでる人もいるはず、と思うけれど。それでも、年相応の女装を楽しめるのは、素直に羨ましいと思う。

 話がそれたわね。
 アタシが、それなりの期間を経て、デイリー女装の暮らしにシフトしていったのは、こそこそと女装してるのが嫌になった、から。
 すごくたんじゅん化して言っちゃえば、そうした気持ちが核。
 実際は「誰に迷惑をかけてるわけでもないし」って思いと、“後ろめたさ”の気持ちがアタシの内でせめぎあっていた。

 それでも、退職後、女装で引き籠るようにして、独りで家事をしたり、本を読んだりしていると、気持ちが安らいでいって。そうした時間の累積が、「誰に迷惑をかけてるわけでもないし」って思いを強めた。
 今でも、“後ろめたさ”に似た気持ちが、アタシの内に無いわけではない。
 ただ、今は、心のなかのせめぎあいの波頭は、とても緩やかになってる。

 それは、デイリー女装で暮らすようになってから、重ねてきたご近所づきあいとかに依るとこが大きい。
 特に、ご近所のお年寄りとのお付き合いには、とてもはげまされてて、ありがたい。

 それから、Netを通じて交流して、オフラインでもあったりした、女装者や、ビアンさんや、ゲイの人たちや、GIDの人や、色々なLGBTの人たち。彼ら、彼女らとの交流は、もちろん、元気の元だった。
(ちなみに、アタシが会社勤めを止めた頃は、まだ、この国の性的マイノリティの間で、“LGBT”って言い方が、広まる前で。もしかしたら、直前の時期だったかもしれない。
 “LGBT”って言い方はいいわよね♪ アタシが個人的に思うには、レインボウの精神と“LGBT”との2本立てでやっていけると、すごくいいと思うのだわ)

 後、アタシは実は、結構オタッキーなんだけど(笑)。TRPGとか、マンガとか、アニメとか、そーゆー関係の交友関係でも、デイリー女装者としてのアタシに馴染んでくれた人たちとは、元気の元を分かち合えたり、合えなかったり、それなりに色々あった。

 でも、そうしたあれこれは、いっぺんには書けないわね。いっぺんに書いたら、ゴチャゴチャになっちゃうもん(笑)。


 実は、アタシは郷里にいる両親には、きちんとしたカミングアウトをしないできている。親の歳を考えると、もう、カミングアウトの機会は望まない方がいいように思う。
 今でも、アタシの内にある“後ろめたさ”に似た気分は、概ねが親にカミングアウトせずに来てしまったことによるのだけれど。女装者としてのデイリーなご近所づきあいの積み重ねが、そうした“後ろめたさ”を宥めてくれている。

 この話題は、思っていたより書くのが難しいわね。
 はしょったり、綺麗にまとめすぎたり、そうした未必の故意的粉飾は避けよう、としているのだけど。それって、書き始める前に思っていたよりも難しい。
 今日はこれくらいにして、明日また、続きを書いてみようと思う。