普通の女の子がプリキュアになる物語(映画 プリキュアオールスターズ NewStage みらいのともだち)
17日に、劇場公開初日の『映画 プリキュアオールスターズ NewStage みらいのともだち』を観てきました。
アタシ、プリキュアの映画は、公開後早めの土日か祭日の、午後一の回観にいくようにしてるんです。小さなお子様連れの若い親御さんが多くて。観客席の雰囲気も楽しい♪
それはさておき、「プリキュアオールスターズ NewStage みらいのともだち」は、劇場アニメとしても、素晴らしい出来です。
テレビで大人気の子供向けアニメ「プリキュアシリーズ」の、劇場用特別編「オールスターズ」。4作めの「みらいのともだち」で、まさに「ニューステージ」に到達☆
傑作です☆
プリキュアのアニメを、この「みらいのともだち」で初めて観る人がいても、メインの物語が掴めるくらい出来がいいです。テレビシリーズの映画化って、どうしても、テレビの方を観てないとわかんないような間口の狭さに傾きがちですけど。
「みらいのともだち」は、とても間口の広いアニメです。そこがいい。
「初めて観る」大人の人が楽しめるかどうかは、人にもよるでしょうけれど。
少なくとも、どんなテーマを巡るドラマが描かれてるかは、わかるはず。
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もし、『映画 プリキュアオールスターズ NewStage みらいのともだち』で、はじめてプリキュアアニメを観る、大人の人がいるとしたら。
まず、「プリキュアって何??」てのは、最初の小さなつまづきになるかもしれません。
でも、「オールスターズ NewStage みらいのともだち」では、プロローグにあたる冒頭パートで、「プリキュアってどんな存在」か、とりあえずのイメージは、その一面がとっかかり的に描かれます。すぐに続いて、劇中の世の中の方で「プリキュアがどう見られているか」も軽くスケッチされてく。
その後、横浜に引っ越してきて間もない1人の普通の女の子、あゆみちゃんが「ニュースとかで報道されるプリキュア」に憧れる気持ちとかも描かれる。
さらにいろいろあって、あゆみちゃんは、それとは知らずに、実はプリキュアになる女の子たちと知り合っていくんですけど。いろいろなエピソードを通して、「女の子にとってプリキュアがどんな存在か」、充分に描かれていきます。
だから、「みらいのともだち」で、初めてプリキュアアニメを観る人がいても、はじめっから「プリキュアが何か」理解しようとする必要はない。
映画の流れに浸っていけば、自ずと呑み込んでいけることでしょう。
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「オールスターズ NewStage みらいのともだち」は、宣伝チラシとかに「女の子は誰でもプリキュアになれる」ってキャッチコピーが刷ってあったりするアニメです。
けれど、映画を観ていくと、1人の普通の女の子(あゆみちゃん)がプリキュアになるのに何が必要なのか、もどかしいような惑いを通して、くっきり描かれていく。
劇中で、あるプリキュアは、あゆみちゃんに「私たちは強いからプリキュアになったんじゃない」って言う。
別のプリキュアは「友達が悪いことをしたら、それを止めるのも友達だと思うよ」って、あゆみちゃんを励ます。
こうして、プリキュアたちに励まされて、1人の普通の女の子、あゆみちゃんは、一時だけプリキュアになって「みらいのともだち」を救い、「みらいのともだち」に守られる。
物語のテーマが読みとれる、「みらいのともだち」の主筋はこんなふうです。
「物語のテーマ」ってのは、作品を、よりよく読み解いていくのに応じて、色んなニュアンスで言い換えが出来ていくものです。
「テーマ」は、「作品の主題」と重なってはいるんですけれど、別レイヤーの事柄。
文部省の国語教育に沿ったテストで、○×採点できるのは「主題」の方なんですね。
「テーマ」−−正確に言えば、物語内容のテーマは、○×採点なんかできない。正解の定まらないもの、なんです。
正解は定められないけれど、「より良く言い当ててる」とか、「ちょっと偏ってる」とか、「無理がある」とかは言える、そんなもん。
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で、『映画 プリキュアオールスターズ NewStage みらいのともだち』のテーマですけど。
アタシは、とりあえず「みらいのともだち」がキーワード−−テーマを読みとっていく時のキーワードになるって、言ってみます。
あゆみちゃんは、何かの事情で横浜に転校してきたばかりの中学2年生女子。友達がいない学校にもまだ馴染めてないし、転校なんかしたくなかったって思ってる。
けれど、お母さんは、今さらそんなこと言わないでみたいに取り合ってくれないし、あゆみちゃんの方でも、自分の気持ちをうまくお母さんに伝えられない。
中2くらいの青少年なら、女子でも男子でも普通に体験する家族の間の食い違いですけれど。
あゆみちゃんの場合、転校したばかりの横浜で、話しながら自分の気持ちや考えを解きほぐしていけるような友達もいない。
それで、ふさぎがちになってるあゆみちゃんですけど。たまたま、不思議な小さな生き物をみつけて、「フーちゃん」と名づけると、友達感覚のペットみたいにして可愛がっていきます。
この「不思議な小さな生き物」フーちゃんと、あゆみちゃんの関わりが、「みらいのともだち」を巡る物語の焦点になっていく。
別の記事でも書いてみましたけれど、プリキュアアニメを観たことが無い大人の人が、初めて観るときに、大きなハードルになるのが、この「女の子と、不思議な小さな生き物との交流」かと思えます。
1つの観方として、現実の世の中で「想像上のともだち(イマジナリー・フレンド)」と呼ばれるタイプの架空キャラクターが、物語の内で具象化されて描かれるのが、作中の「不思議な小さな生き物」たちって面はあるでしょう。
別の観方をすると、3歳児〜小学生低学年くらいの主に女の子の幼児を、筆頭視聴者に想定してる気配のプリキュアアニメで、小さな女の子にもわかりやすい心情を体現するのが、「プリキュアの不思議な小さな生き物」キャラクターって思えます。
シリーズのアニメで描かれる「プリキュアになる女の子」たちは、概ねが中学2年生に設定されているんですけど(2、3の例外はあり)。
そうすると、プリキュアアアニメで繰り返し描かれる「プリキュアになる女の子と、不思議な小さな生き物との交流」は、中2前後の女の子と、「幼女の心情」との交流の描写、その様々なヴァリエーションってことは言えます。
この辺が、実在の小さな女の子たちに、プリキュアシリーズが、圧倒的に親しまれてる魅力のポイントになってるのでしょう。
プリキュアシリーズのアニメではどの作品でも、「中2前後の女の子が、幼子のような心情を大事にしながら、進んでいく様子」が描かれてる。そんな言い方もできます。
ところで「みらいのともだち」の物語では、あゆみちゃんと友達になる不思議生き物のフーちゃんが、とても怖いことや悪いことをしちゃう。
けれど、そうしたフーちゃんのネガティブな言動も、幼児的な心情の一面として描かれてく。
この関連の描写の強い訴求力(訴えかけてくる力)は、これまでのプリキュアアニメの内でも、ちょっと類をみないと思います。
関連作でも、何クッションかを挟んで、実は子供っぽい悪役、とかが描かれた例はあるけれど。フーちゃんみたいな直裁さで、「不思議な小さな生き物」の言動が、幼児的な心情のネガティブな面を体現する例は、ちょっと思い出せません。
「みらいのともだち」の物語では、「伝説の戦士」プリキュアに憧れる1人の普通の女の子、あゆみちゃんが、フーちゃんとの関わりで、とても怖いめにも会います。
でも、あゆみちゃん、フーちゃんが悪いことや怖いことを仕出かすのも、「あたしのせいだ」って思いつめちゃう。
あゆみちゃんにしてみると、フーちゃんが悪いことをしてるのは、自分が一時の感情から言い放った言葉を真に受けてのことで、フーちゃんはフーちゃんなりに自分(あゆみ)のことを守ろうとしてるんだ、って確信があって思いつめてく。
そんなあゆみちゃんに、プリキュアは「友達が悪いことをしたら、それを止めるのも友達だと思うよ」って言う。
あゆみちゃんは、プリキュアたちに励まされ、助けられながら、悪いことをしてるフーちゃんに、謝りに行きます。もう、悪いことを止めてほしいから。
フーちゃんに謝りに行く途中で、あゆみちゃんはプリキュアになる。
そして、ちょっと哀しいけれど希望のようなものを取り戻す経験をします。
そんな物語が「みらいのともだち」の物語。
プリキュアシリーズで描かれるプリキュアたちは、誰も、「小さくて可愛い不思議な生き物」と出会ってプリキュアになって、「小さくて可愛い不思議な生き物」との関わりを通して、「プリキュアとはどんな女の子なのか」、それぞれに納得していくんですけど。
「みらいのともだち」の物語で、あゆみちゃんがフーちゃんとの関わりでプリキュアになる物語は、そんなプリキュアアニメの内でも出色です。
アタシが思うには、あゆみちゃんが経験していく「ちょっと哀しいけれど希望のようなものを取り戻す経験」は、たとえば歌謡曲の「上を向いて歩こう」を歌う時に感じるみたいな、哀しさと希望が入り混じった経験だと思います。
おそらく、メインの視聴者である小さなお子さんたちにも、ちょっと哀しいけれど、不思議な余韻を記憶に残す物語として、楽しまれることでしょう。