「世界のドキュメンタリー」(NHK・BS1):シリーズ「明日をひらく女たち」アンコール

 今週は、NHKのBS1でやってる「世界のドキュメンタリー」枠で、明日(8日)から、シリーズ「明日をひらく女たち」ってことで、6本のドキュメンタリー作品が順次放映される予定。

 “シリーズ”って銘打たれてても、これはNHK側の編成。
 1本ごとのドキュメンタリーは、個別のきっかけで作製されたもの。つまり、文字本で言う「アンソロジー」に似たとこのある放送形態。

 番組表で予告されてる放送予定は次のよう。

  • 8日(火):『タリバンに売られた娘』(“I Was Worth 50 Sheep”,スウェーデン-日本 国際共同制作,2010)
  • 9日(水):『ハマス 熱情の女』(“Women of Hamas”,イスラエル,2010)
  • 10日(木):『女性兵士の反乱 〜ネパール内戦 マオイストの素顔〜』(“Woman Rebel”,U.S.A.,2009)
  • 11日(金):『少女の声なき叫び 〜南ア レイプ被害の実態〜』(“The Lost Girls of South Africa”,U.K.,2010)
  • 12日(土):『ラゴスの青春 〜ナイジェリア〜』(“Welcome to Lagos Episode 3”,U.K.,2010)
  • 13日(日):『過ぎし日々への旋律』(“Play for the Past”,オランダ-韓国 国際共同制作,2010)

 実は、このシリーズ「明日をひらく女たち」、つい先週も放映されたシリーズ。
 “シリーズ”の平均点で、かなり観応えあります。
 “シリーズ”としての編成も割りとよかったと思います。


“I Was Worth 50 Sheep”(スウェーデン-日本 国際共同制作,2010):
 8日アンコール放送の“I Was Worth 50 Sheep”は、アフガニスタンで、市民に支援されボランティアによって営まれる女性シェルターのドキュメンタリー。『タリバンに売られた娘』って邦題は、必ずしも内容を正確に反映していない。
 ただ、旧タリバンの統治時代に、婚資のやりとりに従った女性の従属的婚姻の旧習が復活した、といった趣旨の説明は、ナレーションで挿入されていた。
 また、タリバン支配地域に連れ去られ、男性の所有物として扱われる女性の生死も定かでない例は少なくない、との取材当時の状況(女性シェルターが関わる状況)の説明もあった。ただし、ドキュメンタリーのカメラがメインに取材した若い女性は「タリバンに売られた」わけではない。

 内戦、戦争の断続で、生活基盤が破壊された人も多く、シェルターに避難する女性の多くは、「山羊数十頭」といった婚しで男性に引き渡され運命から逃れようとする、といった取材テーマ。夫を自称する婚約者の手から逃れても、「名誉」を問題にする婚約者の親族に脅迫され続けるなど、現地の事情は簡単ではない。
 番組の終盤、メインに取材された若い女性の妹が、婚資と引き換えに連れ去られたという出来事が、両親と分かれたシェルターに戻った姉が「妹とはおそらく二度と会えない」とカメラに語るなどの構成で、事後的に記録される。


“Women of Hamas”(イスラエル,2010):
 9日アンコール予定のこのドキュメンタリーでは、イスラエルによって封鎖された状態にある、ハマス統治下のガザ地区の様子を背景に、何人かのパレスチナ人女性の様子が取材される。ハマスの女性議員、ハマス幹部の未亡人、自爆テロに志願した息子の母親などなど。
 冒頭、ハマスの党大会で、政治的な主張を声高に演説する幼い少女、少女の演説を聴くために集まっているガザの女性たちという状況から入る。
 続いて、挿入されるのは、ガザ地区で直接取材にあたった、パレスチナ人女性が、イスラエルに在住の女性プロデューサーとインターネットで連絡を取りあってる様子だ。素材は、ガザのパレスチナ人女性が取材し、4年かけて取材された素材をフィニッシュしたのがイスラエル人のプロデューサーだという。
 ドキュメンタリーは2010年に公開された作品で、2008年にガザへイスラエル軍が侵攻した時の映像クリップも収められている。

 ところで、なぜ、この番組の邦題は『ハマス 熱情の女』なんだろう??
 原題“Women of Hamas”をストレートに訳せば『ハマスの女たち』だ。
 もし、視聴者向けに補足が必要だという話なら、アタシだったら例えば『ハマスの女たち 苦悩と熱情』とでも付ける。「絶望と熱情」でもいい。
 1つの社会が、追い詰められている様子を背景に、ドキュメンタリーが伝えようとしているのは、絶望的な状況下で強硬に唱えられる政治的正論の下、反論を唱えることもできずに苦し気な表情をカメラにみせる何人もの女性たちの存在だ。少なくとも「熱情的なハマスの女」たちと対照的に「苦悩するパレスチナ人の女」たちも描かれていて、熱狂的に政治主張は唱えられえているガザの状況も、それらの対照の背景として取材されているだけにすぎない。
 ハリウッドのアクション映画の邦題ならともかく、『ハマス 熱情の女』という邦題は、このドキュメンタリーのタイトルとしては、あまりに偏りすぎている。


“Woman Rebel”(U.S.A.,2009):
 ネパールでマオイスト毛沢東主義者)人民解放軍に、18歳の時、自ら身を投じて兵士たちの指揮官にまでなった女性を密着取材したドキュメンタリー。
 2009年公開のU.S.製作だけど、製作はWoman Rebel Filmsとあって、おそらくはこのドキュメンタリーを撮るために立ちあげられたプロダクションなのではないでしょうか(?)。番組のラストの添えられているディレクターの談話を観ても、このディレクター、南アジア系と思えるの顔立ちと名前をもってられますし。

 このドキュメンタリー、スタンダードな作りだし、レポーター的なスタッフが画面内に写されることは、本編内ではない。ただ、メインに取材された女性兵士や、彼女に関わりの近い人物などに直接インタビューがなされるような箇所では、画面のフレーム外から相手に問いかける言葉も入っている。
 この手法は控えめだけど、アタシは好ましく思う。

 ドキュメンタリーの類では、「取材者やレポーターは画面内に登場せず、撮影素材のみに“語らせる”」といったアプローチの考え方もあるそうだけど。このアプローチは、うまく編集構成などがこなされると、かえって「取材された画像だ」ということを視聴者が失念しがちになる、といった弊害も生じるだろう。
 製作者は、あれこれ考えながら色々なアプローチの中から1本のドキュメンタリーに適した方法を絞り込んでいくのが本来でしょうけど。“Woman Rebel”の製作手法に、アタシは好感を覚えました。

 “Woman Rebel”は、スタンダードな作りのドキュメンタリー内でしょうけれど。ほぼ3年かけたという素材を、もう、これはこういうふうに編集構成するしかないって感じで。ムダかもとか、感じられるようなカットが見当たらないと思えます。
 アタシのこの感じ方は、番組のラストに添えられているディレクター談話に、多かれ少なかれ影響を被っているとは思います。この短いパートで、ディレクターは、女性指揮官の戦歴の内、捕虜収容所からの脱走というエピソードをどうしてもドキュメンタリーの1部にまとめあげることができなかった、と率直にコメント。
 さらに、長年の取材の間に録画した、メインの取材相手以外のマオイスト女性兵士たちの短いインタビュー・クリップも紹介。これらのクリップの内には、“主人公”同様、自ら人民解放軍に身を投じた女性もいれば、人民下方軍に拉致されてきた女性もいる。
 特に、拉致されてきて脱走もできず兵士として従軍していた女性の1人が「マオイスト政党の唱えてる平等は達成できないと思う」と語っているクリップは貴重。

 アタシは、あまりに筋だてが整理されすぎたドキュメンタリーを観ると、どうしても眉に唾をつけてみたくなるのですが。本編の末尾で、ディレクターが“主人公”の周囲の出来事に素材を絞ったと率直に語りつつ、補足的に拾遺を紹介している構成の“Woman Rebel”は優れていると思いました。
 ここで大事なのは、「手法の選択センス」が優れているのであって、「構成手法」自体に優劣があるわけではない、ことと思えます。
 つまり、“Woman Rebel”に即して言えば、3年近く取材した膨大な素材を纏め上げるに際して、本編はスタンダードな作りに収斂させつつ、「最後には」補足拾遺のパートを末尾に添えざるを得なかった、そうした選択が優れた結果を招いたってことです。はじめっから「あの手で行こう」とか、決め打ち的に作っていたら、このドキュメンタリーの密度感は出なかっただろう、と思います。


“The Lost Girls of South Africa”(U.K.,2010):
 このドキュメンタリーは、南アフリカ共和国でのレイプ被害者たち、それも10代の少女たちが置かれている生活状況描き、背景の社会状況までも浮き彫りにしていく。
 被害者たちが置かれている、とても痛ましい状況を、扇情的にならないよう抑制的な語り口で伝え、かえって訴えかけてくる力が感じられます。おそらく、取材に相当の時間がかけられてることは、内容からも推測できますし。また、「抑制的な語り口」は、ドキュメンタリーの仕上げの部分でのスタイルだろうと、思えます。取材の時点では相当に密着した取材が、じっくり続けられたのだろう、とも想像されます。

 ドキュメンタリーを観ると、南アフリカ共和国でのレイプ事件は、おそらく、実数が定かでないくらい件数が多く発生頻度も高いのだろうと思える。被害者たちの「半数ほどが少女だと言われている」とナレーションが語るのだけど、こちらも実数は定かでないのでしょう。
ナレーションは、南アフリカ政府調査によれば、被害者たちの9割近くが訴え出ていない旨も伝え、訴え出ない被害者はそれ以上との、福祉団体の意見も伝えます。

 こうした題材のドキュメンタリーを作るにあたって、製作陣は、レイプ被害にあった10代の少女3人と、彼女らの母親を中心にした家族や、学校関係者、医療関係者、警察関係者などの証言を追い、構成していく。
 取材に時間がかけられていると推測できるのは、追われる3人の少女たちの生活状況が、それぞれにかなり変化していくからだ。実際の取材現場では、少女や母親に、相当密着しているのだろう、と思えるのは、彼女たちがカメラに向かって語る言葉による。


 このドキュメンタリーを観て覚える、痛ましさの感情は、本当なら、たとえば同じ“シリーズ”としてアンコール放送された、“I Was Worth 50 Sheep”(スウェーデン-日本 国際共同制作,2010)や、“Woman Rebel”(U.S.A.,2009)にも感じてしかるべきものでしょう。
 もちろん、それらのドキュメンタリー作品によっても、痛ましいさの感情は呼び起されはします。
 ただ、“The Lost Girls of South Africa”の訴えかけてくる力の強さは、おそらく、学校関係者、医療関係者、警察関係者などの証言クリップ挿入と、その構成とで、なぜ、レイプ被害者とその近親が、被害にあった後なお、長く苦しめられるのか、その背景も描き出してるからだと思います。
 3人の被害者少女を個別に取材し、その記録画像を構成する手法も、南アフリカ共和国の社会的な状況を浮き彫りのようにして示唆するのに、どても役立っています。

 このドキュメンタリーの邦題、『少女の声なき叫び 〜南ア レイプ被害の実態〜』は、アタシは、かなりよくドキュメンタリーの内実を言い現してると思う。強いて言うなら、補足にあたる部分“南ア レイプ被害の実態”が、やや大仰で、抑制的な語り口とわずかにミスマッチかもしれない(??)。 アタシだったら、例えば『少女の声なき叫び 〜南アのレイプ被害者たち〜』とでもするかな。


“Welcome to Lagos Episode 3”(U.K.,2010):
 このドキュメンタリーは、ナイジェリア連邦共和国(西アフリカ)で、ギニア湾に面す旧首都、最大都市ラゴスに取材したシリーズの1編。
 ラゴスの都市再開発計画を背景に、スラムですらない、ビーチに掘っ立て小屋を建てて暮らしている人たちの生活に焦点をあてた1編になってる。住んでいるのは、主に新規流入の都市民らしい。

 ラゴスのシリーズの1編を、「明日をひらく女たち」って“シリーズ”の1本としてアンコールしたのは、これは、きっとNHKの編成なのでしょうけど。シリーズの構成としては、概ねうまくいってると思いました。


 日本で言ったら、ダンボール・ハウスみたいな感じに近い、ビーチの掘っ立て小屋群だけど。そこに暮らしてる人たちは、ホームレスってわけでもなくて。零細でも生業はある。国有地の不法占拠にあたるので、いつ強制立ち退きをされるかとか、不安はあるわけだけど。
 そんな内から、番組は、主にテレフォンカードの路上販売をしてる若い女性や、その友人(やっぱり若い女性)の暮らしを追っていく。

 全部で6本放送で編成されたシリーズ「明日をひらく女たち」は、前半に痛ましい題材が多くて。「ラゴスの青春」て邦題をつけられたこのドキュメンタリーを観ると、浮気した夫を、掘っ立て小屋から追い出したとか、貧乏で大変でもほっとするような印象を覚えるのは確か。
 その代わり、ナイジェリア1番の大都市と言っても、3/4がスラム街とか、当局の強引な再開発の背景とか、そうした、本来のシリーズ構成ならきっとわかり易く描かれてる背景が、わかりづらくなってるのも確か。


“Play for the Past”(オランダ-韓国 国際共同制作,2010):
 このドキュメンタリーは、韓人系オランダ人の女性ハープ奏者、ラヴィニア・マイヤー(Lavinia Meijer)に密着取材した作品。
 はっきりと、個人に焦点を絞った人間ドラマ的なドキュメンタリーと思いますが、シリーズ「明日をひらく女たち」の1本として編成されてもおかしくない良作です。木目の細やかなカメラワークなどに感心します。

 以前、NHK・BS1の「世界のドキュメンタリー」で放送された、シリーズ「爆走都市」では、人間ドラマ的な傾向の作品の混入に、違和感を覚えましたが。それは「爆走都市」ってシリーズ・コンセプトとの関連で感じた違和感。“Play for the Past”が、シリーズ「明日をひらく女たち」の1本として編成されたのとは別のケースだったわけです。


 ラヴィニア・マイヤーは、2歳の時にあまり年の離れていない兄と共に養子に出され、オランダの養父母に養われた。物心がついたのはオランダでのことのはずの、韓人系オランダ人。
 番組を観てると、オランダ語と英語は流暢に話すけれど、韓国語は使えない様子。

 ドキュメンタリーの序盤には、あるいは、マイヤー自身がホームビデオか何かで録画したらしい、オランダの自宅での自己記録が採録されてる。
 「今日は12月8日の月曜日」「自分を撮影するのははじめて」と言いながら、韓国でのコンサートに招聘されていることを「あと2週間で韓国に旅立ちます」と、記録する。
 「韓国からオランダに来た養子のおとんどが、一度は帰国したそうです。家族を探すためにです」ってコメントが目を引く。

 アタシたち日本人は忘れがちだけど、韓国でのキリスト教徒の人口比率少なくないのよね。およそ3割とか言われてる。
 韓国からオランダへ養子に出される子供が、いったいどれくらいいるものか(いたものか?)、アタシにはわかんないけど、たぶん、キリスト教つながりみたいな影響は少なくないんじゃぁないかな。

 ラヴィニア・マイヤーは、韓国で開催されたニュー・イヤー・コンサートに招聘されたんだけど。韓国に入ってから、自分を養子に出した父親と「一度だけ会おう」と決心する。韓国に入る以前は迷ってる感じだけど、どちらかというと、会いたくない様子が色濃い。
 このドキュメンタリーの観どころは、韓国に入ってから、決して長くはない間に、「父親と『一度だけ会おう』と決心する」に至る、ラヴィニアの意識と心理の動き。その「意識と心理の動き」は決してインタビュー的なクリップなどで直裁には語られないけれど、はじめて訪れた韓国についてのコメントなどで遠まわしに示唆されていく。
 “実の父と会うかどうか迷っている”時のラヴィニアのモノローグを、知恵の輪を解こうとしてる彼女の画像に被せるあたりは、ちょーっと出来すぎとかも思ったけど(笑)。
 全体を通して観ると、正統派の人間ドラマ系ドキュメンタリーと言えます。


 結局、ラヴィニア・マイヤーは、自分を養子に出した韓国の父親と「1度だけ会う」ことにするのだけれど、「これは私のアイデンティの問題だから」と、カメラに語る。
 ドキュメンタリーの終盤、コンサート開幕前の楽屋で、オランダ人の夫立会いで、韓国の父親に会ったラヴィニアは、謝る父の言葉を聴くと、通訳に“Dont be sorry.Im very happy with you now”と話しかけて、“It is very special moment to me.”とも告げる。

 父だった男が去った後の楽屋で、ラヴィニアは肩に手を乗せる夫に“I’ts over."と言いながら微笑んでみせる。ここのとこの日本語字幕は「新しい世界だわ」。意訳だけど、ドキュメンタリーの流れの上では違和感の無い意訳でした。
ここのところに集約されてく脈絡には『過ぎし日々への旋律』って邦題も相応しいし、「明日をひらく女たち」って“シリーズ”の1篇にも相応しい作品。

 ちなみに、このドキュメンタリーの特徴に、BGMやコンサートリハーサルのシーンの実音として、ハープを主にした楽曲が多用されていること、が挙げられる。
 アタシは、BGMの類は、基本的には情緒誘導的なので、ドキュメンタリーの類で重用されることには感心しないんだけど。この番組の場合は例外だわね。
 なんつっても、ハープ奏者のドキュメンタリーなんだし、人間ドラマ路線の作品なんだし。多くのシーンで、BGMは効果的に使われていると思います。