映画『ノルウェイの森』についてのメモ

 昨日付けのダイアリー……てか、ダイアリーお休み経緯の備忘録(12日のダイアリーはお休みした - 佳那の日記)にも記したけど、映画版『ノルウェイの森』を、一昨日の一般公開初日に観てきました。
 印象深い映画だったので、同日中に印象記鍼原神無名義(ペンネーム)のブログにアップしたのですけど。
 ここでは、LGBTな読者を想定して、あちらの印象記に盛り込めなかったことを、簡単に書いておきます。
 話題の関係で、特にLな人たちを意識した作文になるかと思います。


 ベトナム系フランス人監督のトラン・アン・ユンによる映画『ノルウェイの森』は、上映時間2時間13分。
 原作にあたる村上春樹の小説は、単行本でも文庫本でも上下2巻。
 当然のように、小説から映画への変換時に、様々なサブプロットが切り捨てられています。
 それに比して、監督がオリジナルに投入したカットは、ほんとうに僅かしか思い当たらないと思うのですが。

 例えば、小説で描かれてたヒロイン直子と、直子が療養院で同室になるレイコさんの、シスターフッドのような関係は、映画では、ほとんど描かれてない。断片的で示唆的なカットはあるので、小説を読んでる人はそこを手がかりにして、イメージを膨らませてもいいし、小説を読んでない人は、気にしなくてもほとんど構わない。
 そういう作りになってると思います。

 ここでアタシが「シスターフッドのような関係」と書いてみたのは、適切な言葉ではないかもしれませんけれど、「レズビアンラブ未然的な女性同士の間の親密な関係」を意図しました。
 あるいは、レイコの直子に対する愛情は既にレズビアンラブ的なものかもしれません。その辺の機微は、アタシにはちょっとわからないのですけど。それでも、直子の方は、レイコを信頼していても、レズビアンラブな感情を抱いているわけでもないわよね、くらいは思います。

 で、小説には確かに表現されているレイコと直子の親密な関係は、映画ではあまり深く描かれなかった。ほんのり匂いのようなものが感じられる程度の描写です。
 そのため、オーラスで、レイコさんが視点人物のワタナベに、セックスしようって言い出すとこが、少し唐突に思えるかもしれません。アタシは、キャストが演じた作中人物の存在感が、本来なら唐突なはずのやりとりを成立させちゃってるように感じましたけれど。
 これは、ご覧になる方それぞれに、色々な評価がされるところだろうと思います。

 パンフレットに掲載された2人のプロデューサーの対談によりますと、クランクアップした後、最初のフィルムは、3時間半あったそうです。その次のバージョンが2時間半で、そこから、上映形態の2時間13分の版が切り出されたとのことです。
 あるいは、上に書いた、ワタナベを誘うレイコさんのところの唐突感は、DVDなりなんなりのディレクターズカット版が出されれば(出されるとしたら)解消される性質のものかもしれません。


 さて、ここまで書いてしまうと、無視したままにしておくと、なんとなく落ち着きの悪いトピックがあります。
 小説に書かれている、レイコさんが療養院に入るに至った経緯の物語についてです。
 今、ここでは、きちんと検討して書くだけの用意がないのですが。
 レズビアンフェミニズムの文芸批評の1部から、小説『ノルウェイの森』が、鋭く批判されている点ですので。私見をメモ的に付記することだけしておきます。

 もちろんレズビアンフェミニズムがLの人たち全員の代表意見ではないでしょうし。フェミニズムに限らず、批評的な言説は、何でも、個別の実際生活と関連付けるには、何かの媒介や変換が必要と思えるのですが。
 この話題は、文芸分野の話題なので、やっぱり完全シカトはできないなー、って思うんです。


 実は、映画版では、レイコさんが療養院に入るに至った背景、経緯については、ほとんど描かれていません。
 ただ、終盤場面の1カットで、「旭川に行く」というレイコさんに、ワタナベがこれまた唐突に「旦那さんや娘さんのところには帰らないのか?」と尋ねるとこはあります。ですので、実は、映画版でも、ワタナベはレイコさんから個人的事情を聞かされていたはずで。聞かされる場面は省略された形です。

 監督が、映画のために小説から抜き出し再編した太いプロットは、ワタナベと直子と死んだキズキの3角関係のプロットで、この3角関係をくっきり描くために必要とされたエピソードやサブプロットから、映画に採りこまれた。このように言っていいと思います。
 その結果、レイコさんのパーソナルなライフパス(来歴)については作中直接語られる場面がなくなった、アタシとしてはそのように思っています。
(ちなみに、『ノルウェイの森』の物語を、ワタナベ、直子、緑の三角関係と取る解釈は、これは物語のポイントを外した解釈だろう、とアタシは思います。この文章の本筋とは関係の遠い話題ですが)


 だいたい、フェミニズム批評の文芸批評家たちからは、村上春樹の作家性は、大方の批判を受けていますが。アタシは、「村上春樹ホモソーシャルな社会性を肯定、ないしは是認している」という類の説については、これは作品の浅い解釈、と主張する用意があります(この辺のことは、鍼原名義の前掲印象記でも触れています)。

 ただ、気になるのは、村上作品に時々みられる、LGBTなキャラクターの表現ですね。
 こちらに不審感を覚える方もおられるのは、アタシもわかるつもりです。『ノルウェイの森』については、小説の作中で間接的にキャラクターの口から語られる、レズビアンの少女の表現。これは、レイコさん関係のプロットに属すので、映画では、描写も言及もありませんでした。